平成23年9月29日
昨今、1mSv(ミリシーベルト)以上の被曝は危険であるという「科学的事実」があるかのような言説が流れ、特にお子さんを持つ親御さんたちが不安に包まれています。放射線の影響を正しく社会に伝えるには、どうすればよいのか。私は、「科学的事実」=≪サイエンス≫と、「放射線防護の考え方」=≪ポリシー≫を、専門家が分けて正しく説明することも有用ではないかと思います。東電福島原発事故以降、この≪サイエンス≫と≪ポリシー≫が混然と扱われているように感じられます。
- 「影響は認められない」という報告は、≪サイエンス≫
例えば、UNSCEAR(アンスケア=原子放射線の影響に関する国連科学委員会)は、「世界平均で、人間は自然放射線(宇宙から・大地から・食物により体内から)を1年間に2.4 mSv被ばく(慢性被ばく)している」と報告しています。したがって、40歳以上まで生きれば、人間は平均100 mSv以上被ばくすることになります。これは、科学的な事実=≪サイエンス≫です。
では、急性被ばくの場合の≪サイエンス≫とは何か。人間に対する放射線の影響は、他の環境物質と同じく、「個人」のレベルでは因果関係を証明することは困難です。(つまり、例えばある人がガンを発症したとき、その原因が放射線の影響によるのか他の要因によるのかは、明らかな見分けはつきません。)そこで、放射線の影響の調査方法としては、疫学(「集団」における健康と影響要因との関係を探る学問)の手法が用いられます。そして、がんなどの疾患の発生率が平時の状況に比べて有意に(誤差の範囲でなく明らかに)差があるときに、「放射線の影響が認められる」という表現が使われます。
例えば、原爆の放射線被ばく(急性被ばく)において、100 mSv以上のケースでは被ばく線量とがんのリスクとの間には、「100 mSvでがんのリスクは1%増加、200 mSvなら2%増加、500 mSvなら5%増加」--という比例関係(これを“直線的な有意の相関”と言います)が認められます。しかし、100 mSv以下のケースになると、そうした有意な相関(50 mSvなら0.5%増加、10 mSvなら0.1%増加、というような明らかな調査結果)が見出せません。つまり、100 mSv以下では、被ばくと発がんとの因果関係の証拠が得られないのです。これは、科学的な事実=≪サイエンス≫です。
このような科学的事実で国際的な合意を得られたものを発表する機関がUNSCEARですから、「疫学的には、100mSv以下の放射線の影響は認められない」という報告になるわけです。
- 「影響があると仮定」した勧告は、≪ポリシー≫
これとは別に、「放射線被ばくは、少なければ少ない方がよい」という考え方=≪ポリシー≫があります。ICRP(アイ・シー・アール・ピー=国際放射線防護委員会)が出す勧告は、代表的な≪ポリシー≫であると言えます。≪サイエンス≫と≪ポリシー≫は、無関係に並立しているのではありません。≪ポリシー≫を決める際の根拠となるものが、≪サイエンス≫です。すなわち、
- ①放射線の影響は、被ばく線量に比例して直線的にがんのリスクが増えること
- ②100 mSv以下では、そうした影響が疫学的に認められないこと
- ③急性被ばくと慢性被ばくの違い
---などの、UNSCEARが認めた放射線の科学的影響=≪サイエンス≫を十分に理解したうえで、ICRP勧告は≪ポリシー≫として、100 mSv以下でも影響があると仮定し、100 mSv以上における“線量と影響の直線関係”のグラフの線を100 mSv以下にも延長して、放射線の防護の体系を考えています。
つまり、原爆の急性影響では100 mSvでがんのリスクが1%増加しますので、「10 mSvでは0.1%、1 mSvでは0.01%がんのリスクが増加する」という仮定を立てて、被ばく限度の値を示すベースとしたのです。そして平時では、一般の人は「公衆限度として、1 mSv/年」と勧告し、職業人は「20 mSv/年」あるいは「50 mSv/年、ただし5年間で計100mSv内」と勧告しています。
また、「緊急時で被ばくがコントロールできないときには20~100 mSvの間で、事態がある程度収まってきたら20~1 mSvの間で、レベルを決めて対策を計画する」とされていますが、それも、100 mSv以下では科学的な影響が認められていないという≪サイエンス≫を踏まえたうえでの、上記仮定に基づく≪ポリシー≫です。
「放射線関係の取り扱いを職業にしている人は、なぜ一般の人の20倍、50倍も被ばくしてよいのか。また、緊急時になるとなぜ平時より沢山被ばくしてもOKになるのか。同じ肉体ではないのか」という疑問を聞きますが、それは、これらの勧告値が≪サイエンス≫ではなく≪ポリシー≫であることを明確に示しています。繰り返しますが、その際、≪ポリシー≫は≪サイエンス≫を「根拠」としており、「逸脱」したものでは決してありません。
なお、上記の緊急時の勧告が、線量のレベルに幅を持たせているのは、「放射線による直接の害(人体への影響)」の発生可能性と、「それを防護するための実害(避難に伴う引越し・失職など)」とのバランスなど、社会的な様々な要因を合わせ考えて、ケースごとの状況に合わせて最適な設定をできるための幅であると理解できます。
- ≪サイエンス≫のUNSCEAR、≪ポリシー≫のICRP
以上でおわかりの通り、UNSCEARは、純粋に科学的所見=≪サイエンス≫から調査報告書をまとめる事を意図して作られた組織です。一方、ICRPは、このUNSCEARの報告書を基礎資料として用い、政治・経済など社会的情勢を考慮した上で、総括的な勧告=≪ポリシー≫を出しています。
UNSCEARは、放射線による被ばくの程度と影響を評価・報告するため、国連によって1955年に設置された委員会です。1950年代初頭の冷戦下、核兵器の開発競争のために核実験が頻繁に行われ、放射性降下物などによる一般公衆の被ばくの懸念があったことから、科学的事実に基づいて核実験の即時停止を求めるなどの提案を行う意図で設置されました。その報告書は、独立性と科学的客観性が保たれています。事務局はウィーンに設けられています。
他方、ICRPは、専門家の立場から放射線防護に関する勧告を行う民間の国際学術組織です。医学分野での放射線の影響に対する懸念の高まりを受けて、1928年に放射線医学の専門家を中心として「国際X線およびラジウム防護委員会」が設立され、現在のICRPの元になっています。イギリスの非営利団体として公認の慈善団体であり、科学事務局はカナダのオタワに設けられています。
ICRPは、勧告の策定にあたっては、国際的な意見聴取(パブリックコメント)を実施し、透明性の確保及び利害関係者の関与を図っています。この勧告は、世界各国の放射線障害防止に関する法令の基礎にされています。我が国における放射線防護に関する技術的基準の考え方も、このICRP勧告を尊重して、文部科学省の下にある「放射線審議会」で検討されてきています。
例えば、平成3年(1991年)に、「ICRP1990年勧告(Pub.60)」が公表されましたが、その内容の国内制度への取入れが放射線審議会で検討されました。その結果、平成10年(1998年)6月には意見具申がまとめられ、放射線障害防止に関する諸法令に反映されています。このように、放射線審議会での検討が、我が国における放射線防護に関する基礎となっています。
最近では、平成19年(2007年)12月に、1990年勧告に代わる「2007年勧告(Pub.103)」がICRPより公表され、それを受けてその国内制度等への取入れについて放射線審議会で審議がなされ、その中間報告が昨年1月にまとめられています。
- 再び、科学者の社会的責任について
以上、私がかねてから重視しているサイエンスとポリシー(科学的事実と対処の考え方)との関係について、先の「放射線の健康影響を巡る『科学者の社会的責任』」(第14回)に引き続き、この稿でも述べてきました。
わが国が、≪サイエンス≫に基づいて、どのような≪ポリシー≫で事故後の対処をしてきたか、また、対処していくか。どのように、子どもたちをはじめとする国民の皆さんの健康を現実に守りぬいていくか。これは国内的に重要なだけでなく、それを正確に世界に発信し、今後の世界の模範となっていくことも大切です。それが果たせることを、願ってやみません。
(参考)
- UNSCEARの報告書はWebにて無料公開されています。
http://www.unscear.org/unscear/en/publications.html - ICRPの刊行物は、概要版がWebにて無料公開されています。
http://www.icrp.org/publications.asp - また、ICRPの刊行物は、例えば(社)日本アイソトープ協会などから日本語版を購入することができます。
(長瀧 重信 長崎大学名誉教授
元(財)放射線影響研究所理事長、国際被ばく医療協会名誉会長)