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首相官邸 Prime Minister of Japan and His Cabinet
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放射線研究の幕開け
~レントゲンによるX線の発見~

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  東電福島第一原発事故以降、放射能や放射線に関して各所でさまざまな説明が行われてきました。多くの方々が懸念を抱いている「放射性物質の人体への影響」を説明するためには、放射線の量や強さ、すなわち線量に関する説明が欠かせませんが、内容が専門的なため、つい難しくなりがちです。そこで以前、このコーナーの第41回、第42回では、放射線研究の歴史的な背景や、単位名称の由来となった人物のエピソードなども織り交ぜながら、なるべくわかりやすい形でご説明させて頂きました。
  さらに今回は、第41回でご説明したベクレルやキュリー夫妻による放射能と放射性元素の発見のきっかけとなった、レントゲンによるX線発見の経緯をご説明します。現在に至る放射線研究の、いわば「幕開け」の時代だと言えるでしょう。

X線発見の土台となった「陰極線」の研究

  レントゲンは、放電管を用いて「陰極線」の研究をしている時にX線を発見しました。 排気されたガラス管内に陰陽二本の金属電極を封入して両極に電圧を加えると、空気中よりはるかに低い電圧で放電が起こり、管内に蛍光が生じます。この現象は、17世紀中頃からわかっており、多くの研究が行われていました。最初の実験を行ったのは、英国のホークスビー(Francis Hauksbee, 1666頃-1713)であったと言われています。
  その後1855年に、ドイツのガイスラー(Heinrich Geissler, 1814-1875) は高性能の水銀ポンプを開発し、真空度の高い放電管を作ることに成功しました。さらに1858年、ドイツのプリュッカー(Julius Pluecker, 1801-1868 )はこの放電管を用いて真空放電の実験をしていて、陰極に向かい合った部分のガラスが緑色の蛍光を発して輝くことに気付きました。また、蛍光を発する場所が磁石を使って移動できることも観察しました。これらのことから、磁石によって影響を受けるある種の線が、陰極から発していると考えられました。
  1876年、ドイツのゴルトシュタイン(Eugen Goldstain, 1851-1931)はこの線を「陰極線」と命名して、その性質の研究に着手しました。同じ頃、ヒットルフ(Johan Wilhelm Hittorf, 1823-1931)、 クルックス(William Crookes, 1832-1919)など多くの科学者が、それぞれの放電管(それぞれヒットルフ管、クルックス管と呼ばれます)を開発して陰極線の正体を解明する研究を実施しました。
  こうした流れの中、19世紀末の1895年、レントゲン(Wilhelm Conrad Rontgen, 1845-1923)(写真1)によってX線が発見されます。その後1897年、トムソン(J.J. Thomson,1856-1940)によって、X線と陰極線の正体である「電子」が発見され、物理学はミクロの世界に足を踏み入れることになります。

「陰極線」ではない「未知の線」

  レントゲンが、ドイツババリア地方のビュルツブルグ大学物理学研究室で「新しい光(new light)」とも呼ばれたX線を発見したのは、1895年11月8日のことでした。その2年前、レナルト(Philipp Eduard Anton von Lenard)が陰極線を放電管の外の空気中に取り出すことに成功していました。陰極線は、ヒットルフ管やクルックス管のガラス製の壁を通過することはできません。レナルトは、真空管の端面に薄いアルミ箔を張った小さな窓を取り付けた、新しい放電管(レナルト管)(写真2)を作成して、この窓から陰極線を取り出したのです。
  翌年、レントゲンはミュラー社から性能の優れたレナルト管を取り寄せ、レナルトの陰極線の実験を追試しました。放電管が出す可視光が邪魔にならないように黒い厚紙で覆い、部屋を暗くして実験しました。そばに置いたシアン化白金バリウムを塗った紙(蛍光板)が輝くことで、アルミ箔の窓から空気中に出た陰極線の存在が確認できました。そして陰極線が届くのは、アルミ箔の窓から空気中数センチの範囲に限られていることもわかりました。

写真1.レントゲン50歳頃

写真2.アルミニウム箔窓付レナルト管

  レナルトの実験を再現することに成功したレントゲンは、次にアルミ箔の窓のないヒットルフ管やクルックス管を用いて、陰極線が外に出ないことを確かめようとしました(写真3)。
  ところが実験の結果、高電圧を加えて通電すると、放電管の近くにあった蛍光板が、レナルト管の時と同様に輝きました。さらに蛍光板を放電管から2メートル遠ざけても、なぜか輝きは消えませんでした。これを見てレントゲンは、陰極線とは異なる未知の線が放電管から出ていると考えました。レントゲンは自分の見た不思議な現象を理解するために、それから数週間、寝食を忘れて実験に取り組みました。

X線発見の大ニュース

  目に見えないこの放射線は、可視光線を通さない紙や木は透過しますが、人の骨や鉛に対しては不透過であることが分かりました。すなわち、放電管と写真乾板の間に不透過の物質を置くと、その影が写ったのです。試しに妻の手を写真乾板の上に置き、15分間照射したところ、手の骨と金属の結婚指輪だけが写った写真が撮れました(写真4)。
  レントゲンは、この未知の線をX線と名付け、同年12月28日、「放射線の一新種について」(Uber eine neue Art von Strarhlen)と題した論文をにビュルツブルグ物理医学会に提出し、同学会の会報に掲載されました。翌年1月1日には、論文の別刷に数枚のX線写真を添えて専門家仲間や友人に送付しています。この論文は翻訳されて、1月23日発行の「Nature」 誌、2月14日の「Science」誌に掲載され、専門家の間で大きな反響を呼びました。また1月5日に、ウィーンの新聞「デ・プレッセ」が大々的に報じ、さらにロンドンの「Daily Chronicle」、アメリカの「New York Sun」が追従しました。こうしてX線発見のニュースは世界中に広まり、多くの研究が行われると同時に、一般の人々の関心をも呼び起こしました。手のX線写真を記念に撮ることが流行し、そのための写真館まで開業したと言われています。

写真3.X線発見当時の実験装置一式

写真4.レントゲン夫人ベルタの手のX線写真

ノーベル物理学賞の受賞

  レントゲンは1896年1月15日にベルリンに招かれ、ドイツ皇帝と皇族の前で講演しました。1月23日にはビュルツブルグ物理医学会で記念講演を行い、公開実験で同僚の解剖学教授ケリカー(Rudolf Albert von Koelliker,1817-1917 )の手のX線写真を撮影しました(写真5)。その後も多くの勲章や栄誉を受け、1901年には 第1回ノーベル物理学賞を受賞しました。

写真5.896年1月23日 記念講演会

日本における放射線研究

  日本に最初にX線発見のニュースを伝えたのは、当時ベルリンに留学中だった長岡半太郎(1865-1950)でした。その後、山川健次郎らによって帝国大学理科大学で、水野敏之丞らによって第一高等学校で、村岡範為馳らによって第三高等学校で、いち早くX線の実験が開始されました。第三高等学校では、島津源蔵、源吉兄弟が技術面で協力しました。
  やがて、骨の映るX線写真は、骨折や、弾丸など体内異物の診断に利用されはじめました。医療用X線装置については、1898年、東京帝国大学医科大学と陸軍軍医学校に、ドイツ製の装置が初めて設置されました。国産の医療用X線装置については、1909年に、第1号機が千葉県市川市国府台の国府台衛戍病院(現国立国際医療研究センター国府台病院)に、続いて1911年に、第2号機が大津市の日赤病院に設置されました。こうしてX線診断学(今日の放射線診断学、画像医学)が誕生し、発展していったのです。
  その後20世紀前半に、量子力学や放射線科学が飛躍的発展を遂げることになりますが、その発端は実は、レントゲンによるX線の発見でした。このコーナーの第41回でご紹介したように、レントゲンによるX線の発見は、ベクレルによる放射能の発見の基となり、さらに放射線研究はラザフォードによる原子構造の解明へとつながっていきました。放射線研究の幕開けはまさに、「近代科学の扉」でもあったのです。
  ここまで、放射線研究の幕開けの歴史をご紹介してまいりました。現在では、皆さんが健康診断で受診するX線画像撮影はもちろん、CT(X線コンピュータ断層撮影)でもX線が利用されています。医療以外の分野でも、X線は利用されています。たとえばメーカーなどは、X線の高い透過性を利用して様々な製品の内部を検査しており、この方法はいまでは品質管理に欠かせないものとなっています。
  このように、X線を利用した技術は私たちの暮らしの中に幅広く存在し、実は被災地においても、津波堆積物中の重金属類の含有量を分析するための大切な技術として、復興・復旧を支えています。

佐々木康人
前(独)放射線医学総合研究所 理事長
前国際放射線防護委員会(ICRP)主委員会委員
元原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)議長



参考資料
青柳泰司著 レントゲンとX線の発見 恒星社厚生閣 2000年 東京
清水栄著 放射能研究の初期の歴史 丸善京都出版サービスセンター 2004 京都
原田尚著 医学史を飾る人々 メデイカル・ジャーナル社 2000年 東京
レントゲン回想 株式会社島津製作所医用機器事業部 2004年 京都

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