はじめに

 我が国で官制上初めて「内閣」という呼称が用いられたのは、明治6年の「太政官職制」の改正で、太政官正院の参議の職責として内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ルと定められ、同時に改正された「正院事務章程」において、正院ハ 天皇陛下臨御シテ萬機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ當否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ、と定められた。これによって、輔弼責任者たる太政大臣及び左右大臣と国務国策の審議立案者たる参議との区別が明らかになったが、ここでいう「内閣」は、今日における「内閣」とはもとより性格を異にするものであった。

太政官達第69号(明治18年12月22日)

 今日におけるような内閣総理大臣及びその他の国務大臣で組織される合議体といった性格の「内閣」は、明治18年12月22日に発せられた「太政官達第69号」によって設けられた。これによって、内閣総理大臣及び各国務大臣を中心とする近代国家としての庶政の処理にふさわしい行政機構である内閣制度が確立された。

 内閣制度は、明治、大正、昭和、平成の各時代にわたってその役割を果たしつつ、130余年の歳月を経て今日に至っている。

1. 内閣制度創設と明治憲法下の内閣制度

1.1. 内閣制度の創設

 明治18年(1885年)12月22日、それまでの太政官制度(慶應4年(1868年)3月14日に布告された、いわゆる「五箇条の御誓文」に示された政治の方針を実現するために設けられた制度)に代わって、新たに内閣制度が創設された。この日、太政官達第69号で、

  1. ① 太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと
  2. ② 内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く。)をもって内閣を組織すること

が定められた。
 初代の内閣総理大臣としては、前参議伊藤博文が任命された。

 明治18年(1885年)12月22日、内閣制度の創設とともに、「内閣職権」が制定された。これは、新内閣機構の運営に関する基準として、7条から成るもので、主として内閣総理大臣の職責を明確にしたものであるが、後年の「内閣官制」と比べると内閣総理大臣の各省大臣に対する統制権はかなり強いものであった点が注目される。
 すなわち、内閣総理大臣には

  • 各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督スること(第1条)
  • 行政各部ノ成績ヲ考ヘ其説明ヲ求メ及ヒ之ヲ検明スルコトヲ得ること(第2条)

などの強い権限が与えられ、各省大臣には

  • 其主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ(第6条)

との報告義務が課された。

内閣職権(明治18年12月22日)

1.2. 明治憲法下の内閣制度

 明治22年(1889年)2月11日に公布された明治憲法の下においては、天皇が統治権を総攬するものとし、国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス(第55条第1項)と定められていたが、内閣それ自体については特段の規定は設けられていなかった。

大日本帝国憲法(明治22年2月11日)

 行政権は、国務大臣の輔弼によって天皇が自ら行うという原則に立ち、内閣は、本来、国務大臣が天皇を輔弼するについて協議するために設けられた組織体であり、同時に、国務大臣が諸施策を決定し、行政上の方針を統一するために協議する場でもあった。

内閣官制(明治22年12月24日)

 同年12月24日、内閣制度運用の基準として、「内閣官制」が公布された。この「内閣官制」は、明治18年の「内閣職権」をおおむね踏襲するものであったが、内閣総理大臣の各省大臣に対する統制権限が弱められたことなどの違いが見られる。

 また、明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格であった。
 内閣総理大臣は「内閣官制」によって、各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス(第2条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった。