石破大臣訓示
先ほど安倍総理から訓示があった通りであります。
ある意味、日本の形を作り変える。そういう仕事を我々はしていかなければなりません。
昭和20年の敗戦後、この国の形を作って来ました。過密とか、過疎とかいう言葉が公に登場したのは昭和40年代であったかと記憶を致しております。
その後、田中角栄内閣において、日本列島改造というプロジェクトが進められた。あるいは、大平正芳内閣によって、田園都市構想というものが進められた。
にもかかわらず、日本は、今日のように地方は消滅とも言われるような危機になり、世界の主要都市の中で首都に一極集中しているというのは、恐らく日本とソウルだけのはずです。ジャカルタでも、クアラルンプールでも、あるいは、バンコクでもこのようなことはない。
増田さんの論文が示すように、このままいけば都市に人は集まり、人口は再生産されず、高齢化が急速に進行することによって、そのケアのマンパワーは地方から都市に来る。地方はどんどん消滅に向かって進み、東京も消滅に向かって進み、結果は、日本国の消滅になるという事態を今回避けるための処方箋を出さないと、この国は無くなる。
その危機感を我々は持たねばならないので、お願いを致したいのは、総理がおっしゃったように各省庁の色んな要求を全部束ねて、0.7を掛けてホッチキスで止めるようなことは、絶対にやらない。そして、東京対地方の対決の構図には絶対にしない、ということであります。
この2つをやったらば、このプロジェクトは、絶対に失敗するという事であって、そういうようなことを持ってきたらば、それは、一番にはねるという事になります。
重ねて申し上げますが、これは、日本を新しい形に作る、そういうような事業であります。
さらばこそ、今度の安倍内閣の最重要看板政策になっているのであります。
私は国会議員になって29年目になります。今から30年前に初めて鳥取に戻った時に、私の最初の師匠は、田中角栄先生であって、田中角栄先生の持論の「1番川上から歩け」という言葉の通りに、出馬の記者会見をして1番最初に行ったのは、今は鳥取市佐治町と言っていますが、佐治村という本当に小さな小さな村の1番奥の集落から1件残らず歩くという事を始めました。
総理がさきほど、現場に徹せよ、という話をされましたが、霞が関や永田町で考えていることと現場との間にかい離がある限り、絶対に共感も得ないし、政策も実行を得ないというところであります。
そこの村は、本当にあと何年持つのかという事であって、地方に行かれた方はご存じでしょう。わしらが死んだらこの村は終わりだと、本当にさびしそうな顔で言う人がいかに多い事か。やっぱり、ここに生まれて良かった。育って良かった。ここで死んで良かった。エモーショナルな話をするつもりは全くないのだが、やはりこの国に生まれて、この国に生きて良かったという思いを、国民が等しく持てるように、全身全霊でお互いに努めてまいりたいと思います。
どうぞ、お力を貸していただきますよう、共に日本国の未来のために、そしてこの国を作ってくれた古の人たちの思いに恥じないように、仕事をしてまいりたいと思います。頑張りましょう。